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有田焼のまめ知識 | 李参平

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、多くの藩が陶工を日本へと連れ帰りました。肥前国鍋島藩主・鍋島直茂が連れ帰った一人が李参平(りさんぺい、イ・サムピョン)とされています。彼は1616年に有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに天狗谷窯を開いて日本初の白磁を焼いた有田焼の祖と言われています。有田焼の成形工程では、まず粒子の粗密の均一化、水分の濃密度の平均化と陶土内の平均化と陶土内の気泡を完全になくすため、土こねを手仕事で丹念に行います。

この工程が不充分ですと、焼成後、割れやひずみの原因となってしまいます。器物を形作る製造工程の中でもっとも重要な過程が成形です。品種別、用途、あるいは機能性に応じて、それぞれの技法があるのですが、有田焼はロクロ成形を主としています。1637年に鍋島藩が、伊万里と有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、現在の皿山を形作りました。この頃までの有田焼を骨董界では、しばしば初期伊万里と称しています。

陶石を精製する技術(水漉)が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、また形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く、皿径と高台径の比がほぼ3対1の、いわゆる三分の一高台が多いことが特徴となっています。文禄・慶長の役の際、朝鮮出兵をした大名の多くは優秀な朝鮮の陶工を連れ帰りました。

肥前藩主・鍋島直茂もその一人で、慶長の役(1597~1598)で李参平を連れ帰りました。李参平は、最初のころ多久安順の保護の下、現在の多久で陶器を焼いていましたが、それでは満足できず、より良い磁器の原料を求めて旅に出ました。そして、有田の泉山で理想的な原料を発見して、日本で初めて磁器の製作に成功したことが現在の有田焼の礎となったと伝えられています。有田焼の窯元、柿右衛門窯の錦苺文茶筅型一輪差しです。柿右衛門窯製の鮮やかで繊細な苺の絵が目を惹く花瓶で、美しい存在感のある逸品となっています。






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